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埼玉県(さいたまけん)は、日本の都道府県の一つで、関東地方の中央西側内陸部、東京都の北に位置する県。県庁所在地はさいたま市。日本で8つある内陸県の一つであり貿易港や臨海工業地帯を有さないものの、日本の都道府県中、人口は720万人弱(2009年)、県内総生産は20兆円強(2006年)で共に第5位、人口密度は1890人/km2で第4位である(内陸県中ではいずれも第1位)。また農業産出額は第6位であり、ネギやホウレンソウ、ブロッコリーなど産出額が全国5位以内に入る農作物も多い。農業産出額が第2位の千葉県、第3位の茨城県と共に、首都圏における近郊農業の盛んな地域といえる。県の西側(秩父地域)には山が多い一方、それ以外の地域は関東平野の一部をなしており平地が多い。平地部においては、東京に隣接する南側ほど人口が密集し、逆に北側ほど農地が多くなるという傾向がある。県庁所在地であるさいたま市は、内陸県にある最大規模の都市であり、内陸県唯一の政令指定都市でもある。旧埼玉県(現在の埼玉県の東側3分の1)の設置当初、県庁が埼玉郡岩槻町(現:さいたま市岩槻区)に置かれる予定であったため、その郡名から埼玉県と名付けられた。但し、当時の岩槻には県庁として使用するのに適した建物がなかったため、県庁業務は北足立郡浦和宿(現:さいたま市浦和区)にある旧浦和県庁舎で行われた。一方、現在の埼玉県の西側3分の2に当たる地域は入間県となり、その後、群馬県と合併して熊谷県となるも僅か3年で熊谷県は解消され、旧入間県地域は旧埼玉県と合併した。その際に、埼玉県の名称のまま県庁所在地も浦和宿となったため、岩槻町が実質的な県庁として機能することはなかった。1890年(明治23年)9月25日には、勅令により正式に浦和町が県庁所在地となった。「埼玉」の地名の発祥地は「北埼玉郡埼玉(さきたま)村」(現:行田市大字埼玉)である。その名称の由来は諸説あるが、埼玉古墳群が由来とする説や、幸福をもたらす神の働きを意味する「幸魂」(さきみたま)から名づけられたとする説がある。奈良時代の『万葉集』に「前玉」「佐吉多万」(さきたま)という記述があり、また、平安時代の『和名類聚抄』に「埼玉」「佐伊太末」(さいたま)という郡名がみられる。当時、既に「さいたま」と呼ばれている事が分かる。埼玉郡、さいたま市の名称問題なども参照のこと。旧律令国においては、現在の埼玉県の領域は大部分が武蔵国に含まれており、東端部の江戸川沿いの一部地域が下総国に含まれていた。武蔵国には東京都、及び神奈川県の北東部も含まれることから、埼玉県は武蔵国の中部・北部にあたるといえる。埼玉県の形状は、東西約103km、南北約52kmと東西方向に長い。日本の都道府県中面積が9番目に狭いが、最も狭い都道府県である香川県の約2倍の面積を有する。また周囲は7都県と隣接し長野県の8県に次いで多い。県の東側では江戸川を境に千葉県に接し、北東側には茨城県・栃木県ともわずかに接する。北側および北西側は概ね利根川、神流川(利根川の支流)といった河川、および荒川・神流川の分水嶺を境として群馬県に接している。南側はほぼ東西に真っ直ぐに東京都・山梨県と接している。この南境は、西部では荒川と多摩川あるいは笛吹川の分水嶺にあたるが、東部では一部が荒川となっている他は河川や分水嶺などの地形に見いだすことは難しい。埼玉県の地形は、児玉・小川・飯能を走る八王子構造線によって、その東側の平地部と西側の山岳部に分けられる。東側の平地部は古来利根川や荒川、入間川などの流域であり、低地や台地(大宮台地など)が広がるほか、一部に丘陵(比企丘陵など)もみられる。江戸時代、徳川家康により現在の古利根川の流路に近かった利根川の流路は、渡良瀬川(現在の江戸川の流路に近い)、ついで鬼怒川(毛野川)に導かれ、また現在の元荒川の流路に近かった荒川の流路は入間川に導かれ、現在の河川形態となった(利根川東遷事業)。西側の山地部は関東山地に含まれ、その中央部に秩父盆地がある。秩父盆地東側の比較的標高の低い山塊は特に外秩父山地とも呼ばれる。西側の長野県境は日本海側との分水嶺を形成しており、その南端に位置する甲武信ヶ岳は千曲川、荒川、笛吹川(富士川の支流)の源流であるとともに、埼玉県・長野県・山梨県の県境となっている。その北には県最高峰である三宝山(2483m)がある。中央部・西部・東部の南側の地域は首都である東京に近く、近代以降の大都市圏の拡大に伴い、1970年代を中心に急激な人口流入と都市化をみてきた。このようにして形成された市街地は、その多くがスプロール現象によるものであり、このような地域では現在も道路などの社会基盤の整備に難を抱える。県内は首都高速・東京外環道・関越・東北・常磐・圏央道などといった高速道路や自動車道が多く集まり、高速道路が比較的整備されているが、一般道については十分に整備されていない地域が多く、自動車の増加や大規模商業施設の郊外立地化に伴い各地で道路渋滞が慢性・深刻化している。また道路・鉄道ともに東京方向の交通網は発達しているが、県の東西を結ぶ鉄道・道路はそれに比べて中小なものが多い。また、埼玉県の諸都市の特徴のひとつに、同等の人口を持つ自治体が多数存在することが挙げられる。県庁は浦和市にあり、経済規模では大宮市が優位で、市制施行は川越市が最も早かった。一方、2001年に大宮市・浦和市・与野市の合併で「さいたま市」となり(その後岩槻市を2005年に編入)、政治・経済共に中心と呼べる自治体区域が誕生した。国などの関東地方出先機関が集まるさいたま新都心も造成されたことで、東京のベッドタウンから関東地方において独自の重要性を持つ地域になりつつある。現在こうした県東西の移動・交流の活発化、既存交通網の混雑緩和を狙った「東西交通大宮ルート」と「東西交通県南ルート」と呼ばれる2つのLRT整備計画が検討されている。「東西交通大宮ルート」は、所沢-上福岡-大宮、大宮-さいたま新都心-浦和美園、浦和美園-越谷-吉川の3区間で構成される。大宮-浦和美園区間の11.4kmについては、2015年の開業を目指して調査・検討がなされている。また、東西交通県南ルートは川口-南鳩ヶ谷-草加の8.9kmとなっている。埼玉県は、場面や分野に応じて北関東に区分される場合、南関東に区分される場合の両方がある。千葉県・東京都・神奈川県とともに「東京圏」を構成し、相互の通勤・通学等の流動が多いことなどを重視し、南関東に区分されることが多いが、衆議院議員総選挙における比例ブロックにおいては、北関東に区分されている。甲武信ヶ岳、三宝山、雲取山、宝登山、両神山、伊豆ヶ岳、武甲山、三峰山、木賊山、飛竜山、和名倉山、大平山、奥秩父山塊荒川、入間川、芝川、高麗川、綾瀬川、利根川、江戸川、中川、神流川、新河岸川、古利根川、元荒川、大場川、霞川、笹目川、黒目川、成木川、伝右川、渡良瀬川、垳川、鴨川、新方川、不老川、都幾川、柳瀬川秩父湖、秩父さくら湖、奥秩父もみじ湖、西秩父桃湖、狭山湖、玉淀湖、神流湖、彩湖、宮沢湖、鎌北湖、名栗湖、白幡沼、伊佐沼、武蔵水路、見沼代用水、野火止用水、利根大堰、首都圏外郭放水路太平洋側気候である。また、海に接していないため、内陸性の気候(昼夜の寒暖差の激しい気候)である。冬季は特に秩父地方などでは冷え込みが厳しく、1月の平均最低気温は-4.8℃にもなる。夏は熊谷や越谷などでは酷暑となり、40℃近い気温が観測されている。降水量は全般的に少ない。県内で旧石器時代の遺跡は、大宮、武蔵野、江南、下総の各台地、秩父盆地の各河川流域に約500が確認されている。この時代の遺跡・遺構は3万年前以降の立川ローム層・大黒ローム層から発見されている[1][2]。県域は隆起と海退によって形成された。海面は、現在よりも高く、東京都江戸川区から県域南東部を中心とした海抜の低い地域は、古東京湾の入り江が大きく入り込んでいたため、海底だったと推定される。その証拠に、川口市等に貝塚が至る所に発見されており、その影響は縄文・弥生時代まで続いたとされる。古代の国選史書である『日本書紀』にある安閑天皇元年(534年)に、「閏の十二月…(中略)…是の月に武蔵国造笠原直使主と同族小杵と国造を相争いて年経るに定めがたし」云々とあり、鴻巣市笠原地区付近に居を構えていたとされる豪族、笠原直使主と同族の小杵による武蔵国造の勢力争いが起き、朝廷の力を借りた直使主が勝利し、武蔵国造となった使主は朝廷に横渟(多摩郡または横見郡)・橘花(神奈川県橘樹郡)・多氷(多摩)・倉樔(神奈川県久良郡)の四箇所を屯倉として差し出した。と記述されていることや、6世紀に突如現れたこの地の巨大古墳郡、および後述の鉄剣などから大和朝廷の直接支配まで、長らく武蔵国における中心だったと考えられる。本域は、律令制以前は、毛野国と呼ばれ、筑紫や吉備に比肩する大国であったとされ、大和朝廷との関係において高い地位にあり、現在の東京地域よりも繁栄していた。(慶雲5年)708年に、現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から、和銅(ニギアカガネ、純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出した事を記念して、「和銅」に改元するとともに、日本最初の流通貨幣となる和同開珎が発行される。1978年(昭和53年)には、行田市埼玉にある さきたま風土記の丘(現:さきたま古墳公園)の稲荷山古墳の中から、金錯銘鉄剣が発掘され、のち奈良にある元興寺文化財研究所へ持って行き調べた所、表裏に金象嵌で115文字の銘文があることが分かり注目を浴びた。その文中にある「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」は『記紀』に出てくる雄略天皇であり、『宋書』倭国伝に見える倭王武である。また、冒頭の「辛亥の年」は471年である。との学説が主流である。古代史ブームの巻き起こる中で、鉄剣の解釈をめぐりさまざまな議論がある。埼玉県域の郡は、足立・新座・入間・高麗・比企・横見・埼玉・大里・男衾・幡羅・榛沢・那珂・児玉・賀美・秩父郡である。また郷の数は県域で75郷である(『和名類聚抄』)。県域内の郡衙所在地は不明なところが多い。神護景雲3年(769年)9月17日に正倉4倉が焼失し、穀類や人に死傷者が出ている。雷火による天災か神火(じんか)[3]による人災か不明である[4]。中世にはそれまで原野であった北武蔵の丘陵地や台地を開拓した武蔵武士が出現し、畠山氏や河越氏ら諸氏を分出した秩父氏の一族や、同族集団として形成された武蔵七党など中小規模の在地土豪となった。平治の乱を経て武蔵国が平氏の知行国になると武蔵守には平氏一門が任じられると武蔵武士は被官化し、新恩地を得て西国へも進出した。治承4年(1180年)の源頼朝の挙兵後に服従した豪族には、県域に勢力を持っていた秩父一族が主に頼朝に味方し、治承・寿永の内乱における合戦に参戦した。河越氏や畠山氏、比企氏、足立氏らは鎌倉幕府の創設期に重用されて政務に参画するが、幕府権力の確立課程では河越氏を除き没落し、武蔵武士の地位は低下した。中世には鎌倉幕府の成立を契機に街道が整備され、北武蔵には南北に鎌倉街道の上道や中道が通じて奥州方面と結ばれ、物資の流通路となったほか軍事的にも重視され、沿道には城館が分布する。幹線道の整備に伴い脇道や水上交通も発達し、多くの市や宿が成立した。北武蔵は、古くから後北条氏の領国として繁栄、天文10年(1541年)には最重要拠点の川越城を巡り関東管領の上杉憲政や古河公方と結んだ扇谷上杉氏と城の救援に向かった北条氏康との間で川越夜戦が行われ、敗北した扇谷上杉氏は滅亡した。後北条氏の勢力圏となった北武蔵には多くの支城が築かれ、氏康は扇谷上杉氏を支援した上杉憲政を圧迫する。憲政は越後国守護代の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼り、関東管領職と上杉家家督を譲り受けた景虎は関東出兵を行い氏康と争った。後北条氏は甲斐国の武田氏や駿河国の今川氏と三国同盟を結び景虎と争っていたが、同盟破綻後の永禄12年(1569年)には越後と和睦して越相同盟を結び、武田氏の秩父方面への侵攻を招いている。後北条氏は天正年間には関東の大半を支配し豊臣(羽柴)家に次ぐ全国第二位の勢力となるが、豊臣秀吉は天正18年(1590年)天下統一の最後の戦いとなる小田原合戦において北条氏直を破り、北条氏を滅亡させる。後北条氏の滅亡後、北武蔵を含む関東へは徳川家康が移封され、徳川氏の家臣団が配置された。江戸時代になると埼玉県内には川越藩や忍藩・岩槻藩・岡部藩が立藩。江戸に近く親藩・譜代の重臣が配されたが、川越藩を除き城下町の形成は小規模であった。川越は江戸北方の防衛拠点として、また武蔵国の商工業の中心地として「小江戸」と呼ばれ繁栄した。江戸幕府により江戸を起点とした五街道の整備が進められ、埼玉県内には中山道に9つの宿場(蕨宿、浦和宿、大宮宿、上尾宿、桶川宿、鴻巣宿、熊谷宿、深谷宿、本庄宿)、日光街道(奥州街道)に6つの宿場(草加宿、越ヶ谷宿、粕壁宿、杉戸宿、幸手宿、栗橋宿)が置かれた。五街道に準ずる脇往還は、県内では川越往還、川越・児玉往還、千人同心街道、日光御成街道、関宿往還、秩父往還、秩父甲州往還が整備された。明暦年間には野火止用水が、享保年間から見沼代用水が開鑿され、三富新田の開発が行われ米麦栽培が増大したほか、養蚕や織物、木綿の栽培や野菜など地域特産物の生産も盛んになり、定期市で販売されたほか、利根川・荒川・新河岸川の舟運を通じて江戸へも移出された。明和元年(1764年)には、大規模な百姓一揆である中山道伝馬騒動が発生している。近世後期には幕領と旗本領の錯綜する関東一円で無宿人・浪人が増加したため社会不穏が増大し、幕府では文政の改革に伴い文政2年(1805年)に関東取締出役を設置して警察力の強化が行われ、村々では組合村を形成して対応している。幕末には異国船が日本近海に出没し、嘉永6年(1853年)6月3日にはアメリカのペリー艦隊が来航し幕府に通称を求めるが、江戸湾の海防は川越藩、忍藩が彦根藩、会津藩を加えた四藩で担当し、藩士の現地派遣や遠見番所の設置などを行った。ペリー艦隊の来航に際しては海防策が修正され、品川台場の防衛を川越藩・忍藩・会津藩が担当した。海防強化は村々へも負担が生じるが、一方で日本が開国し本格的な貿易を開始すると積極的に対外交易を試みる投機商も出現した。近世後期の社会変動、開港前後の諸役負担や経済変動は農村社会に影響を与え没落農民層も発生していたが、慶応2年(1866年)6月13日には入間郡を中心に中山道以西地域に波及した武州一揆が発生し、関東取締出役の出向により鎮圧される。明治時代の1883年から85年にかけて、秩父地方で松方財政の不況の中借金に苦しむ負債農民が困民党を結成して秩父事件とよばれる騒擾を起す。埼玉県には、40の市、29の町、1つの村がある。市の数40は日本の都道府県で最多、市町村数70は北海道、長野県に次いで日本国内第3位である。なお、町はいずれも「まち」、村は「むら」と読む。埼玉県内では、区分が行われた時期や施策分野、広域行政の実績等に応じて、様々な地域区分の設定がなされている。この項では、そのうち代表的なものを記載し、うち最も区分数の少ない5地域ごとに、地域の概要を記述する。埼玉県には1896年以来、以下の9つの郡がおかれている。郡に含まれる地域は、市制施行や市町村合併に伴い次第に縮小しているが、現在属する郡、および過去に属していた郡による地域区分が、「○○地方」「○○地区」といった名称で、教育行政等の分野で用いられることがある。(例:埼玉県内公共図書館等横断検索[1])なお、南北に細長い南埼玉地方と北葛飾地方については、両者を併せて「埼葛地方」と称されることがある。従来、埼玉県庁などにおいて広く用いられていた地域区分。「彩の国5か年計画21」(計画期間:2002年度-2006年度)など、数次にわたる5か年計画に用いられ、埼玉県庁のホームページ上でもこの地域区分が紹介されていた。また、2008年までは5地域それぞれに「地域創造センター」が置かれていた。(埼玉県庁ホームページ上の地図、Internet Archiveによる2008年時点のもの)中央複合都市圏とも称する。おおむね、北足立郡か、同郡に属していた地域のうち旧新座郡域(4市)以外の部分が該当する。中央地域創造センターはさいたま市浦和区にあった。荒川と綾瀬川とに挟まれた地域で、その広がりは南は川口から北は鴻巣にわたり、南北に細長い。浦和以北では、この南北に細長い地域の中央を大宮台地(北足立台地)が走っている。江戸時代以降、五街道のひとつである中山道がこの台地上を通り、現在ではこの旧中山道に並行して京浜東北線・高崎線が通っている。これら南北に結ぶ交通路を中心に形成された市街地は、県内最大規模を有する。この中心となっているのが県庁所在地であるさいたま市であり、さいたま市は2003年に政令指定都市となった。このような市街地は現在では東京のベッドタウンとしての性格が強く、近代以降の東京の郊外拡大に伴い人口・経済規模が著しく増大してきた。工業の中心は、鋳物などから携帯電話等の精密機械の製造へと重心が移っている。西部複合都市圏とも称する。おおむね、入間郡、比企郡およびこの2郡に属していた地域と、旧新座郡域が該当する。西部地域創造センターは川越市にあり、東松山市に東松山支所が置かれていた。荒川から外秩父山地の東側手前に至る地域である。東端の荒川沿いの低地から西に行くにつれ台地―丘陵と遷移し、秩父地方と接する西端は一部山地にかかる。東京のベッドタウンとしての性格が強い一方、関東旧来の生活風俗が色濃く残る地域でもある。東武東上線を中心とする都市軸、西武池袋線・西武新宿線を中心とする都市軸の二つの都市軸が形成されている。このうち小江戸と呼ばれる川越藩の城下町川越をはじめ志木・坂戸・東松山などが前者、西武ドームのある所沢をはじめ狭山・入間・飯能などが後者に属する。農業については、関東ローム層に属する水はけの良い地質のため、ゴボウ・ニンジン・サツマイモなど根菜類の生産が盛んである。また戦後早くから製造業を中心とした大企業が生産拠点を進出するケースが多く見られた。本田技研工業(狭山市・和光市)や西武鉄道(所沢市)の本拠地。柳瀬川流域(志木市・新座市・所沢市)には現在も武蔵野の原風景を残している地区があり、宮崎駿監督のアニメーション映画「となりのトトロ」ではその舞台となった(所沢市松郷周辺など)。秩父リゾート都市圏とも称する。おおむね、秩父郡および同郡に属していた地域が該当する。秩父地域創造センターは秩父市にあった。県の一番西側に位置する地域である。関東山地やその周辺の山々とそれらに囲まれた秩父盆地からなり、秩父巡礼などの観光産業が発達。結晶片岩の岩畳を特徴とする長瀞の景勝地は、サメなどの古生物の化石が発掘されることから「日本地質学発祥の地」「地球の窓」とも呼ばれ有名である。北部複合都市圏とも称する。おおむね、児玉郡、大里郡およびこの2郡に属していた地域が該当する。北部地域創造センターは熊谷市にあり、本庄市に本庄支所が置かれていた。北端を利根川、南を荒川が流れており低地や台地を主体とするが、秩父地方に接する南西側に近づくにつれ丘陵へと遷移する。熊谷の商業地を中心に、周辺都市や隣接する群馬県から消費者が流入する。工業は各地の工業団地を中心に発達している。また、農業ではナシ・ミカン・ネギなどの生産が盛んである。東部複合都市圏とも称する。おおむね、北埼玉郡、南埼玉郡、北葛飾郡およびこの3郡に属していた地域が該当する。東部地域創造センターは春日部市にあり、行田市に行田支所が置かれていた。旧日光街道の沿線を中心とする地域であり、中央地域と同様、南北に細長い地域である。江戸川・中川などの河川が南北に流れ、流域は低地となっておりその立地を生かした米を中心とした農業が盛んな地域である。そのような立地条件から東京との近接性の割に宅地化は遅れ気味であったが、高度経済成長期以降東武伊勢崎線沿線を中心に、草加市・越谷市・春日部市・久喜市などで急速な宅地化が進んだ。上記の5地域区分をより細分化する形で設けられていた地域区分。過去の「埼玉県中期計画」(計画期間:1982年度-1986年度、1987年度-1991年度)などに用いられており、広域行政圏もこの9地域を単位として設定されていた。また2010年3月までの二次保健医療圏も同じ名称で、一部を除きこの9地域区分を単位に設定されていた。現行の5か年計画「ゆとりとチャンスの埼玉プラン」(計画期間:2007年度-2011年度)で用いられているほか[5]、2010年4月より、この10地域区分に基づく二次保健医療圏の再編が行われ、名称もプランに合わせる形で変更となった[6]。2008年4月、上記の「地域創造センター」と「産業労働センター」とを再編する形で、政令指定都市であるさいたま市1市でなるさいたま地域を除く9地域それぞれに、「地域振興センター」が設置された。埼玉県ホームページ上の地図太字は地域振興センター所在市町村である。41.6歳(男40.7歳、女42.5歳。2006年(平成18年)1月1日現在)詳細は埼玉県知事一覧を参照。埼玉県の指定金融機関は埼玉りそな銀行である。さいたま市など、埼玉県内の市町村のほぼ全ての指定金融機関は埼玉りそな銀行である。その他の埼玉県内に本店がある金融機関としては、武蔵野銀行、埼玉縣信用金庫などがある。埼玉県はインターネット放送を通して知事記者会見、県議会中継などを映像配信し、県政の広報に務めている[7]。詳細は「埼玉県議会」を参照2006年(平成18年)時点での県内の事業所数は254835事業所で、東京都、大阪府、愛知県、神奈川県に次いで全国第5位である。産業別の事業所数では、卸売・小売業、サービス業、製造業、飲食店・宿泊業、建設業の順に多く、従業者数では、卸売・小売業、製造業、サービス業、医療・福祉、飲食店・宿泊業の順に多い。また、市町村別の事業所数では、さいたま市、川口市、熊谷市、川越市、所沢市と続き、従業者数では、さいたま市、川口市、川越市、所沢市、熊谷市と続く。2007年(平成19年)の年間商品販売額は15兆1109億5967万円、製造品出荷額等は、14兆7302億円である。2006年(平成18年)の観光客入込数は1億1019万人と推計されており、近年増加傾向にある。目的別で最も多いのは各種行事まつり見学客で、スポーツ客、遊園地客がこれに続く。寺社参詣・文化財・産業観光客数は増加傾向にあるが、レジャー客は減少している。など1908年(明治41年)の国語調査委員会報告以来、関東地方において京阪式アクセントに似たアクセントの使用地域(主として旧葛飾郡域にて。実態は東京式アクセントの一段階変化形特殊アクセントであった)として注目を集めたが、退潮著しく、高年層の発話に聞かれるだけになっている。他はほぼ全域にわたって東京式アクセントによる東部方言の西関東方言が用いられる。東京に近い上に県外からの転入者が多いことから共通語の影響が強く、西関東方言も衰退し、いわゆる「首都圏方言」が使われているところも多い。埼玉県は、公営競技4種である競馬、競輪、ボートレース、オートレースにおける全ての競技場が揃っている珍しい県でもある(ほかに4種揃っているのは福岡県のみである)。詳細は「日本の郷土料理一覧#埼玉県」を参照詳細は「埼玉県を舞台にした作品」を参照「埼玉県出身の人物一覧」を参照放送区域は関東広域圏に属する。テレビ埼玉のほかに、NHK放送センター(総合テレビ・教育テレビ)と在京キー局5局(日本テレビ・テレビ朝日・TBSテレビ・テレビ東京・フジテレビ)が県内全域で、またTOKYO MXテレビが県内東部の大抵の地域で映る。NHK・キー局ともに東京タワー波からの受信のみならず、秩父・児玉地域を中心に中継局を置いている。なおJFN系の番組は南部はTOKYO FM、北部はFMぐんま、レディオ・ベリーを受信して聴くことができる。また、InterFMが、県内の対象地域はさいたま市のみだが、事実上南部、西南部及び北部の一部の広範囲で聴取可能となっている。さらに、J-WAVEも事実上南部を中心とした地域で聴くことができるほか、東部ではBay FMを事実上受信できる地域もある。埼玉県内に本社があるAMラジオ局はないが、埼玉県内に送信所がある(後述)NHKラジオ(第1・第2)、TBSラジオ、文化放送を県内のほぼ全域で良好に受信できる。さらに、主として南部ではニッポン放送を受信することができ、また他局よりは聴きにくいもののアール・エフ・ラジオ日本を受信できる地域もある。上記の他、下記の関東広域圏の広域放送局の送信所が埼玉県内にある。